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世界へとびだせ.COM インタビュー
パイオニア編

テクニカルコンサルタント 浦田丞さん

 



 

浦田丞(うらたすすむ)さん

Intel8080で始まったマイコンブームに先駆けて、4ビットCPU等を使って組み込みシステムの開発を行い、1982年にコンピュータの本拠地米国へ移住。UNIX登載用のTCP/IPのプロトコールスタック開発を行い、その後、1985年からAT&T/Lucentベル研究所で16年間、データ通信、ネットワークマネージメント、メッセージングシステム等の開発をする。その間、日本移動通信(現KDDI)のデジタル携帯電話用の交換機のシステムエンジニアリングの為に日本AT&T/Lucentで5年間の東京勤務をする。1997年にシリコンバレーにあったCIOグループへ帰国着任し、Lucentベル研究所のメッセージンググループ(元オクテル)の開発マネージャを最後に早期退職した。その後、米国トーメンで米国InfiniBand製品の技術移転を担当し、2006年4月にTechnocross社を設立しInfiniBandを中心とするコンサルティング業務を始める。

  浦田丞さん(うらたすすむ)
 



世界へとびだせ!インタビュー




今回は、カリフォルニア州シリコンバレーで、「日本人技術者支援プロジェクト」を主催されているTechnocross社の浦田丞さんにお話をうかがいます。

浦田さん、よろしくお願いします。
※インタヴュアー⇒わたなべ美紀 世界へとびだせ.COM サンフランシスコ事務局代表
 
浦田です。お手柔らかに(笑)

 
浦田さんは、シリコンバレーで活躍する日本人IT技術者のパイオニアのお一人で、現在は後輩を支援するプロジェクトも立ち上げておられますが、浦田さんにとってシリコンバレーには思い入れのようなものが?

 
ありますね。

1976年に大学を卒業してソフトウェア開発技術者として働き始めた頃から、インテル社のあるシリコンバレーに一度は行ってみたい、住んで働いてみたいと憧れていました。

当時のインテルは、まだ年間売り上げ10億ドルにも満たない企業でしたが。 97年に、当時東京で勤めていた外資系ソフト会社のCIOのグループがプロジェクトマネージャを募集していることを知り、千載一遇のチャンス!と、応募して採用されました。

その夏に家族で渡米してきたのです。

 
 
憧れのシリコンバレーに住んで、働く。
その夢を実現されたのですね。

 
 
実現まで20年かかりました(笑)

 
英語は、学生当時から得意なほうでしたか?

 
いや、むしろその逆でしたよ。

でも、渡米当時はコンピュータ関連はすべて米国が中心で、最新情報を正確に手に入れるには、開発が行なわれている米国の言葉=英語での情報収集力、会話力が不可欠と感じていました。

折りよく別の事情で名古屋の会社を退職し、失業保険をいただける事になったので、その保険料を全て英語の夏期講習代に充てて英会話を習いました。クラス決めの面接では米国人の先生の言っている事が全く分からなくて…、これは後で聞いた話なんですが、「このひとは本当に大学を卒業してるのか?」と先生に疑われたとか(笑)この時の先生とは、まだ連絡を取り合っていますよ。

 
 
英語力をfirst priorityと考え、失業期間と保険料とを、
次のステップに向け有効に活用されたのですね。

 
失業保険の支給期間が終わって再就職した後も、英語学校は夜間授業に切り替えて継続しました。

今にして思えば、この決断が良かった。

再就職先でインテルのCPUを使ったシステム開発に関わり、インテル本社が行なうソフトウェアのライブラリへも直接投稿して1年間のメンバーシップの免除を受けたり、8086システム開発装置の購入をいち早く行なえたり、英語力の強化が大変役に立ちました。

 
英語力の強化に注力した結果が、
現在のコンサルタントとしての実績に結びついているのですね。

 
25年も米国社会で暮らしてきて、ヘビーな技術会話、電話会議等、全て英語。家でも英語。英語にはさぞ自信があるだろうと、皆さんはお考えになると思います。

ところが、これが全く逆でして…。プレゼンテーション等も含め、人前で話をするのが全く下手です。すぐに上がってしまうので(笑)

 
 
それでも、仕事をする時は、
日本語より英語の方が楽なのではありませんか?

 
 
そのとおりです。

英語の方が、感情抜きではっきりとものが言えるからでしょうね。

 
さて、話の流れを戻しましょう。

英語学校での成果はそれだけではなかった…、ンですよね?(笑)

 
英語学校で知り合った日系米国人と結婚しまして…今の妻です。

将来の子育てを考えて米国への移住を決意しました。当時は永住権の取得も比較的簡単で、6ヶ月で晴れの米国移住を果たせました。

 
 
永住権がとれて、技術・語学力もあるとなれば、
米国での就職は容易だったのでは?

 
いや、それが…。

82年の秋に、日本の会社を退職して渡米した当時、米国での就職の当てなどまったく無かった。

最初の半年ほどは、「自称独立コンサルタント」として、日本で開発した製品のプロモーションレターをタイプで打っては、これぞと思われる会社に送りつけていました。

 
 
それはまた、大胆不敵な…。

 
100通送って1件の引き合いがあるかどうか…

という毎日で、蓄えも日々減っていくのが見えていましたね。そんな状況下でも、こちらでの仕事にはビジネスコミュニケーション、会話等のルールがあると思い、UCLAの英会話クラスにも入りました。

そうこうしている間に長男が生まれて…。

 
米国は医療費が高いですし、奥様にとって初めての海外での出産は、経済的にも精神的にもリスクが高かったのでは?

 
移住後に健康保険を購入したものの、妻は既に妊娠中だったので保険の購入が出来ず、やむを得ず保険無しでの出産でした。

 
 
……そら恐ろしい話になってきました。
で、さすがの浦田さんも焦って、お仕事を探しを?

 
新聞の募集広告を見てはレジメを送り、返事が無ければ電話をかけて状況を聞き出しました。

ひと月の間に3社から反応が貰えて面接を受けましたが、ここでもちょっと失敗談があります。 第2志望の会社から採用のオファーが来た時に直に返事をせず、第1志望の会社の採用担当に直接電話してオファーを出してくれるか催促をしました。

「採用マネージャが出張から戻らないとオファーは出せない」と言われて、「御社が第1候補だが、別の会社からオファーが出ているので早く結論を出して欲しい」と告げて電話を切ったところ、これが逆効果。

2日後に不採用通知が届きました。

 
 
結果、第2志望だったMAI社へ就職されたわけですね。

 
MAIの就職がその後の人生に大きな影響を与える事になりました。当時、LANはコンピュータのプロしか知らないもので、TCP/IPプロトコールも全て一からの開発でした。

その実績を、「データ通信のスペシャリスト」とレジメに書く事ができたのが、ベル研究所への就職の決め手になったと考えています。

 
 
ベル研究所の技術員といえば、
まさにITエンジニアの憧れだったでしょう。

 
ベル研究所では、IBMデータ通信エミュレーションソフトの開発、NTTの網管理システムの通信サブシステムの開発、交換機のSE、日本ルーセントへの派遣と至り、キャリアがシリコンバレーへと繋がっていったわけです。

 
 
Technocross社を設立されたのは、どのような経緯ですか?

 
ルーセントを2001年に退職後、トーメンの米国法人に就職。シリコンバレーの新技術の日本・中国への移転を担当しました。

その後、2006年に豊田通商のトーメン買収により、その時継続していたインフィニバンドプロジェクトをスムースに関連会社へ移す目的で、Technocross社を設立し独り立ちしました。

主な業務は、プロジェクトの移転先と米国ベンダーとの間に入って、マーケティング、テクニカルサポートをシームレスに行なう為のコーディネーションです。

 
現在、仕事をされていて一番楽しい点は?

逆に難しい点は、どんなところですか?

 
もっとも楽しいのは、常に新しい技術に接する事ができ、日本の技術者たちにそれを伝えていけることでしょうか。

逆に、難しいのは、日本のユーザの常識が、米国ベンダーの一般常識からはるかにかけ離れている事。

それを両者に理解してもらう事です。

 
 
日本で勤務されていた時と、アメリカでの仕事のやり方を
比べたとき、大きく違う点は?

 
日本では、皆を納得させる事が出来ずに肩書きで人を動かす人が多い。

米国は、自由の国。各人の考え方が異なり、自分の考えを主張する。力では動かせません。

皆が理解できる合理的な考えを話せる人が人を自由に動かしています。ここが一番大きな違いではないでしょうか。

 
さて、そんな浦田さんが精力的に推進しておられる、シリコンバレーの技術者支援プロジェクト「シリコンバレー・コンサルタント・ネットワーク」について、お話をいただきましょう。

 

シリコンバレーで就職し、米国の素晴らしさを経験できたのは、私の人生にとってとても素晴らしい事でした。

日本にいた時は、マイクロプロセッサを使ったアプリケーション開発には相当な知識を持っていると自負していた私ですが、米国に来て、英語で直に技術者と話をしてみると、彼らの素晴らしさがわかり、自分は何と「井の中の蛙」だったのかを思い知らされました。

この経験を、日本の若い技術者にも味わって欲しい。そして、日本の技術者が、自らリスクを負ってでも新しい技術開発に入ってこれるようになって欲しい。

私の年代に近い方々のネガティブ思考とは全く違う米国の熟練技術者と接して欲しい。その様な気持ちで一杯です。「シリコンバレーで一旗あげよう」と言う方ではなく、違った経験を積んで、新しい日本人技術者の道を開いていきたいと考えておられる方を、是非とも支援して行きたいのです。

一方で、最近はますますH1-VISAの取得が難しく、泣く泣く日本へ帰国する方が増えて来たと聞いています。ここを何とかできれば、優秀な日本人が米国でのびのびと育っていくのではないでしょうか。

 
 
確かに、外国人向け就労ビザの取得は
年々困難を極めてきていますね。

 
将来的に、日本から渡米してくる、又は米国へ残留を希望する駐在員の方々のVISA取得を含めた支援が出来るような組織へと発展させていきたいと思っています。

今、シリコンバレーで独立しておられるコンサルタント、これから独立しようと考えておられる方等の為には、雨の日も風の日も、ある程度頼れる「組織」が必要ではないでしょうか。そのファウンデーションを作る最初のプロジェクトが、「シリコンバレー・コンサルタント・ネットワーク」(コンサルタント協会)なのです。

 
"世界へとびだせ.COM"参加メンバーの皆さんにとっても、浦田さんが提唱されているコンセプトは非常に注目されますね。

今後の活動にできる限り協力もさせていただきたいと思います。 さて、最後に、「アメリカで仕事をしてみたい!」という夢を持つ日本のみなさんに、ひと言!

 
優秀な日本の技術者よ!

勇気を出して、米国で仕事をする為の努力をしてみよう!

 
 
力強いメッセージをいただきました。

浦田さん、ご協力をありがとうございました。 (完)



2007年11月 Technocross社オフィスにて



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